「みんな仲良く」という刷り込み
大抵のおひとり様は、「みんな仲良く」という言葉にちょっとアレルギーを感じているのではないでしょうか。嫌いとまでは言わなくても、なんとなくモヤっとする。だからこそ1人行動を好むのだと思います。
ところが日本社会、特に教育現場ではどうでしょう。幼少期から「みんな仲良くしましょう!」というスローガンを浴びせられ続ける。ほぼ強制イベントです。結果として私たちは「仲良くしない=悪い子」という刷り込みを受けて育ってきたのです。言ってしまえば、ちょっとした洗脳です。
幼少期からの違和感
私自身、幼稚園の頃から“ぼっち”でした。遊びの時間に教室で1人絵本を読んでいたら、先生に「外に出てみんなと遊びなさい!」と怒られたのです。
百歩譲って「外に出て遊びなさい」なら分かります。健康のために外で体を動かすことは良いことです。でも、なぜ「みんなと」限定? 幼い私は納得いきませんでした。
仕方なく園庭に出て、かごめかごめをしている子どもたちに勇気を振り絞り「入〜れ〜て〜」と声をかけました。ところが、その声はみんなの笑い声にかき消され、誰にも届きません。シュールな孤独だけがそこに残りました。
以来、私はもう友達の輪に入ることを諦めました。先生の目には、さぞ「問題児」に映っていたことでしょう。でも私からすれば、「なんで無理に仲良くしなきゃいけないの?」という素朴な疑問の延長線上にいただけなのです。
「みんな仲良く」は本当に必要?
冷静に考えてみましょう。世の中にはいろんな人間がいます。気が合う人もいれば、どうしても合わない人もいる。当たり前の話です。
なのに「みんな仲良く」という理想を掲げるから、しんどくなる人が出てくる。
私の持論はシンプル。「みんな仲良く」なんて必要ない。大事なのは「いろんな人間がいる中で、それぞれが生活する」こと。それだけで十分なのです。
一人でいる子を責めないで
とにかく気に食わないのは、1人でいる子に対する大人の態度です。
「友達がいないなんてかわいそう」
「仲間に入れてあげなさい」
いやいや、勝手に憐れまないでほしい。1人でいることを選んでる子もいるんですよ。むしろその時間こそが大事なんです。
「仲間外れにされてる」? ただ“1人でいるだけ”です。それをわざわざ“問題”に仕立て上げて、追い詰めるのは誰ですか? 先生や親、大人たちでしょう。1人でいる子を、どうか責めないでください。追い詰めないでください。
子どもにとって本当に大事なのは、無理に“みんな”に溶け込むことよりも、「自分が安心できる居場所」を持つことだと思います。
まとめ:仲良し至上主義から自由になろう
「みんな仲良く」という言葉は、表向きは優しいようで、実は息苦しい呪文でもあります。もちろん、人を傷つけたり排除したりすることを肯定しているわけではありません。ただ、「仲良くしなきゃいけない」という縛りから解放された方が、よっぽど健全なんじゃないでしょうか。
みんな仲良く? そんなの無理でしょ。
それぞれの距離感で、淡々と共存すればいい。
——そんな社会の方が、ずっと居心地がいいと思うのです。